推理小説・無料体験版・盗まれた名画の秘密

 春川智明、年齢は三十歳、160センチの小柄にして体重は60キロというと太めの体かと思いきや逆三角形の上半身で背広を着ると着やせするタイプなのだ。
彼は福岡市に探偵事務所を開き、インターネットによる集客で大いに金を稼いだ。ホームページは何という有能なセールスマンだろう!
おかげで春川は宣伝広告費は払わずに済んだのだ。ウェブサイト制作を業者に頼んだのが宣伝経費と言えなくもない。業者の男は、
「春川さん。スマートフォン向けのサイトも作りませんか。お安くしておきます。」
と携帯電話に連絡してきたが春川は、
「それは今のところ要らないよ。顧客は金持ちでないといけないわけだ。年齢もそれなりにいっている男女からの依頼によるものだからね。
ぼくのところにはアクセス解析ではスマートフォンから来ていないんだ。」
「そうでしたか。そういえば、そんな気もしますね。又、よかったらメール下さいな。」
「ああ、何十年先になるかな。」
それを聞いた担当者は絶句したようだ。携帯電話は唐突に切断されたのであった。

 春川は(ああ、浮気調査ばかりだ。しばらく休みたい)事務所の外に見えるのは福岡市南区井尻の湯気の立つような風景だ。それにも彼はウンザリした。
もともと春川は探偵小説に感銘を受けて探偵を志したのだ。しかし、殺人事件を日本の探偵、いや、どこの国の探偵も取り扱うことはないといっていい。
携帯電話にメールが着信された。
開いてみると、差出人は害人三十面相だった。

 ご機嫌いかがかな、春川智明君。
君は浮気調査に飽き飽きしていると思う。だから、吾輩が君を刺激してあげようと思う。福岡市東区にある埋め立て地に新しく美術館ができたのは、ご存じだな?
そこで日本画の巨匠 幻界灘男の展覧会が行われている。吾輩は幻界画伯の名画を見事にいただくつもりだ。
警察に通報するもよし、地方新聞に教えるなり、いや、それよりもはるかに強力な手段、ネットで情報を流すのも結構。
楽しみたまえ、それでは。

害人三十面相より、だよー。
(ふざけた話だが、本当かもしれない。)
と春川は思考した。
幻界灘男は日本画といっても白黒の枯淡な水彩画などではなく、現代日本を描く画家で年齢は七十にもなり、一部の熱烈な崇拝者によって高額な値が美術オークションなどでつき、海外、特にイギリスの美術愛好家の資産家連中の購入意欲を誘う数少ない日本人なのだ。
その絵は神秘的にして宗教的な作品もあり、東京のスカイツリーの上に立つ観音菩薩の姿などが見られたりする。
幻界灘男は福岡県福岡市の出身で東京在住、分譲マンションの最上階に住む。旅行好きで自宅を開けがちなため、以前、戸建て住宅に住んでいた時に盗難にあい描きかけの作品を持ち去られたことがあった。それで今は二十四時間警備付きの分譲マンションに住んでいるのだ。
それ以来、盗難事件は起こっていなかった。幻界灘男の絵は福岡市でも来場者が多く毎日盛況な東区の美術館であるが(田舎というほどではないにしても福岡の美術館だから警備は手薄かもしれない。害人三十面相も目の付け所が、さすがなのかもしれないなあ、うむ。)と春川智明は思うのだが、しかし彼は私立探偵、こんな犯罪予告には興味はなかった。

幻界灘男の展覧会は一階の展示室で行われていた。午前九時から午後五時までの間だが、その日は春川智明に予告された日から一週間経った月曜日、つまり美術館は休日の日。
美術館は警備会社に委託して警備にあたっている。展示会が始まって十日、何事もなく過ぎて、大抵の美術展はそうなのだが、警備員の気も緩んでいる時だった。
警備員は控室でモニターの画面を見ている。二人の警備員は三十代の若い男性、二人とも独身だ。
「退屈だなー。」
「こんなもんだよ。ドラマか映画じゃないから何も起こらないのが普通じゃないか。」
と彼らは話し始める。
「柔道をやってきて女なしの青春、就職難でこの警備会社には入れたけど、事務員は四十代のおばさん。大学は男がほとんどの東京の大学でね。」
と武山は話す。
「そうか、おれも同じだよ。俺の場合は空手だけどな。瓦は二十枚くらい重ねて割れるけど。」
と滝道は答えた。武山は、うなずくと、
「おれもだ。」
「このまま一生を終わるんだろうか。」
「仕事は、それでいいけど。女との出会いはないとねー。」
「空手って女でもやっている人が、いるだろう?」
「それは柔道だって、同じだろう。」
「ああ、でも、あまり好みじゃない。」
「それは、おれもそうさ。」
その時、ドアが開くと若い女性が顔を出した。武山と滝道が武道家らしい目で、その女性を見たが何という美しい顔立ち、長い髪と赤い唇は笑顔を作り、両の瞳は涼やかに黒目が大きい。
「失礼します。わたくし、今日から入館しました江浦(えのうら)みさきといいます。これから、よろしく、お願いします。」
甘く透き通る声だ。身長は百六十センチ弱というところ、当美術館の制服を着ているし胸には館員証をつけている。
二人は武道家らしい構えを解いて雇われている警備員らしき態度に変わると、
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
と口々に挨拶した。
江浦みさきは一歩、部屋の中に進み出ると、
「さっそくですが、幻界灘男画伯の展示中の絵のうち、「観音菩薩の慈悲」を持ち出すことが必要なんです。それは今日一日ですが、画伯からの要請なのです。
ですから、警備の方に了解いただきたいと思いまして。」
「観音菩薩の慈悲」は時価、三十億のもので、東京のある宗教団体から美術館がレンタル料を払って展示会のために借りているもので、今回の展覧会では最高の日本画だ。
アメリカの自由の女神の頭上はるかに高いところに観音菩薩が空中に現れて、右手でオーケーの印を作り、左手は手のひらを上にして前に差し出している構図である。
青紫の靄が観音菩薩の周囲に漂う神秘的な感が見る者の気持ちを惹きつける。

武山と滝道は互いの顔を見合わせると、武山が答えて、
「わかりました。どうぞ、我々はモニターで見ておりますから。」
と笑顔になる。
江浦みさきは胸のポケットからキャンディーの包みの様なものを取り出すと、
「とても香りのよいキャンディーを幻界画伯から戴きましたの。警備の方に、あげてほしいとのことでしたから。」
と話しかけて優しい手つきで二人に差し出す。二人は右手のひらを差し出して、
「いただきます。」
とうれしそうな顔で、そのキャンディーを受け取った。江浦みさきは
「鮮度が大事なキャンディーですの。すぐに召し上がってくださいね。」
ニコリとうなずくと、部屋を出て行った。

江浦みさきは香水とは違う若い女性の持ついい匂いを警備室に残していた。武山は、
「新しい館員さんらしい。毎日、楽しくなりそうだな。」
「うん、このキャンディーも、いい匂いがするな。」
「食べよう。鮮度が大事なんだって、言ってたな。」
「ああ、そうしよう。」
二人はキャンディーの包みを解いて大粒のそれを口に入れた。甘く広がる洋風な味、二人はモニターに向き直った。

二人とも「観音菩薩の慈悲」が展示されている場所のモニター画面を見入る。そこに、もうすぐ江浦みさきが現れるのだ。だが、二人は美人館員の彼女を二度と見ることはなかった。

夕方の六時になった。警備員交代の時間だ。武山と滝道と交代する夜勤の警備員二人は警備室に入ると、
「おい、起きろよ。交代だっ。」
「なんで寝ているんだぁっ。」
と口々に大声で叱咤した。
だが、椅子の上でぐったりとしている二人は目を覚まさなかった。
「しょうがないなあ。おい、起きろよ。」
「いつから寝ているんだよう。」
二人は武山と滝道の肩を揺さぶった。
「死んでいるのか。」
「まさか、まだ体温はある。」
「そうだな。脈もある。」
「救急車を呼ぼう。」
一人が携帯電話で救助の連絡を取った。

武山と滝道は救急車で運ばれていった。
「館内に異常はなかったか、見回ってくるからな。」
「おれは、ここでモニターを見ているよ。」
見回りに出た警備員は真っ先に「観音菩薩の慈悲」を確認しに行った。大丈夫、盗まれていない。壁面に高額の名画は鎮座ましましている。幻界灘男のほかの作品も点検しに回った警備員は何も異常はないのを確認した。

近くの病院に運ばれた警備員の武山と滝道は深い昏睡状態から医師の手当てで五時間後に目を覚ました。二人は意識を取り戻すと、
「なんで眠ってしまったのか。あのキャンディのせいじゃないか。」
と武山が隣のベッドの滝道に慌てて問いかける。
「ああ、そうだ。他に思い当たらないぞ。あの女が・・・大変だ。絵が盗まれているんだっ。」
滝道は右手のこぶしを握り締めた。滝道はベッドわきの携帯電話を取り、会社に電話を掛けた。
「もしもし、滝道です。あ・・・今、気を取り直しました。」
「そうですか。それは、よかった。部長に変わります。」
電話の相手は警備部長に変わった。
「おう、滝道君。とにかく、よかったよ。」
「大丈夫なんですか。絵が盗まれていませんか。」
「いや、異常はなかった。それは直ぐに確認しに行ったそうだ。」
「それは、よかった。ほっ、としました。」
「完全に治るまでは寝ているように、な。」
「はい、でも、もう出勤できます。」
「武山は、どうなんだ。」
「武山も大丈夫みたいですが。」
「それなら、いつ来てもいいぞ。」
電話は切れて、そばで聞いていた武山も安堵の胸をさすっていた。

 翌日の午前、幻界灘男展は平日とはいえ、そこそこの人が入場していたが、目玉の「観音菩薩の慈悲」の前に立ちすくんでいる一人の中年の太った男性が、
声を出した。
「違う。これは本物の「観音菩薩の慈悲」じゃない。」
少し大きな声だったせいか、近くに座っていた女性美術館員が近づいて来て、
「どうか、しましたか。」
と尋ねてくる。
「これは贋物ですよ。私は幻界先生のこの絵を宗教団体に売ったのです。その時、注意深く、まあ、どの絵でもですが、見ていたので贋物は分かるのですよ。」
四十代の女性美術館員の顔は、みるみる青ざめた。眉を寄せると、
「館長に連絡します。」
と言うや近くの警備員に走り寄って話をした。

五分もしないうちに六十代初頭らしき眼鏡を掛けた紳士然とした男性が背広姿で、その場にやってきた。口を開くと、
「≪観音菩薩の慈悲≫が贋物だと、おっしゃるのですね?」
と画商らしき男性に話しかける。
「ええ、間違いありません。」
「よろしい。警察に届ける前に確認した方が、よさそうですな。幻界画伯に連絡しますよ。そうすれば、なによりも確かですからね。」
館長の眼鏡の奥でギロリと丸い目玉が光った。美術館の館長として大事な絵が盗まれたとあっては恥辱の極みとなる。すぐに警察に連絡するのは、とにかく避けた方がいい。
 それに美術品の盗難など警察は何処の国でも本腰をすぐに入れてこない。館長の目から見て本物か贋物かは実は分からなかったのだ。
ということで幻界画伯の登場となるわけだった。

その前に美術館長は警備会社に今一度、館長室に戻ってから電話で警備のことで尋ねてみた。
「最近、特に不審なことは、ありませんでしたね。」
警備部長は即座に、
「ええ、ありませんでした。防犯カメラには不審な人物は映っておりません。江浦みさきさんという新人の館員さんが幻界画伯の【観音菩薩の慈悲】を持ち出されるのは映っていますが、その後、ちゃんと戻していますから。」
館長の表情が変わると、
「江浦などという館員は、うちには、いないのですよ!」
「えええっ、では、その女が・・・でも、戻してはいますよ・・・。」
「うむ。それは・・・。」
贋物だ、と言おうか言うまいかと館長は迷ったが、
「うん、絵はあります・・一応、確認のためです。以後も、よろしく。」
急いで電話を切ると、
江浦みさき、か・・・と館長は心の中で呟いた。
そんな館員は、かつて、いたためしはない。自分が館長になってからは、そうだ。それに新人の館員さん、と警備会社の部長は言っていた。そんな新人は、この美術館には存在しないのだ。

 翌日の朝早く、美術館が開館になると同時に幻界画伯が木製ステッキを携えて現れた。
館長室に職員に案内されて入った幻界に館長は揉み手をして、
「これは、幻界さま、お越しいただき恐縮です。」
と云うと立ち上がり、
「さっそくですが、「観音菩薩の慈悲」を見ていただきたいのです。どうもわたくしの勘では贋物とすり替わっているような気がします。」
「なんだと!ちゃんと管理しておるのかっ。とはいえだな、あの絵は既にワシの所有物ではないのだ。画商に売っておるのだからな。」
ステッキを振り上げて仁王立ちの画伯は、怒りの顔の後は平静に戻った。そしてポツンと、
「連れて行ってもらおう。ワシなら、すぐに分かる。」

館長と女性職員、そして幻界画伯はまだ客のいない「観音菩薩の慈悲」の前に移動した。
名画の前に近づいた画伯は、
「おお?これは贋物じゃ。よく似せて描いておるが、紫の光は微妙に違うし、観音様の目などワシほど丁寧に描写しておらん。館長さん、あんたのご指摘通り、これは贋物じゃよ。」
幻界画伯は呆れた顔をした。それから、
「つまりは盗まれたのだね、君。」
「ええ、そうなります。」
「そうなるとは、なんだ。警察に届けたのか。」
「いえ、まだでございます。」
「どうするつもりか。」
「警察に届けるのは却って危険かもしれません。まだ犯人からの要求も、ありません。」
「犯人の要求通りにしないと、む、燃やされるかもしれんな。」
「そういうことも考えられます。」
「では待つか。要求を。」
「そうするしか、ないでしょう。」
そこへ警備員が駆け付けると、
「館長、犯人らしき人物から警備室のパソコンにメールが来ました。
なんでも害人三十面相とか名乗っているのですよ。」
「なに?害人三十面相、前に高宮の宝石店から宝石を盗み出した事件が、あったのを覚えている。」
警備員も、
「それは私も覚えております。あの事件の後、うちの警備会社で営業に行って今ではそこをうちで警備しております。」
「ふふん。そこも大丈夫かな。ここは、やられたではないか。」
警備員は返答に窮した。
幻界画伯は不満そうに、
「とにかくな。この贋物の絵は外してくれ。これがワシの絵だと思われれば目のある人たちは奇異に思うからな。」
と抗議したので館長は、
「は、直ちに取り外します。おい君、この絵を取り外すんだ。」
と駆け付けた警備員に指示した。

展覧会の一番の注目品は取り外されて、そこには
「調整中」
という張り紙が張られた。

その日の午後一時に美術館に電話があった。それは盗まれた絵画の建材の所有者である宗教団体の幸福霊会からだ。
四十代の男性の声が事務室の電話に、
「幻界さんから聞きましたがね。おたくに貸している「観音菩薩の慈悲」が盗まれたそうですな。」
電話に出た女性事務員は、
「館長に、おつなぎします。お待ちください。」
それで電話は館長に、
「もしもし、お電話変わりました、館長の・・・。」
「絵が盗まれたそうですねえ。」
「はい、申し訳ありません。必ず、取り戻しますので、ご心配なく。」
「あの絵が展覧会終了後にないと、ちと困るのですよ。ニューヨーク支部に持っていく予定なのでね。」
「あと十日あります。必ず取り戻します。」
必死に懇願する館長の言葉に何の反応もなく電話は一方的に切られてしまった

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